池田慎さんの個展、秋の南山城村。

2011.09.26 Monday

先日行った、南山城村のGallery Den mymで池田慎さんの個展&座談会(?)の様子です。
「南山城の母」たちによる料理が振る舞われ、大変おいしくいただきました。
なんなんでしょうね、毎回ここに来ると不思議な感覚になります。
まずクルマを降りて、ドアを開けた瞬間の空気からして違う...!!
毎回、気持ちが豊かになる気がします。

池田さんの作品も素晴らしかった。池田さんの人柄も素晴らしかった。
作品単体で見てもとてもいい作品であることは間違いないんですが、人柄と作品の絶妙なコンビネーションが、作品の魅力をさらに高めている気がします。
http://galleryden-mym.com/current.html

そして、そんな南山城には確実に秋の気配が訪れておりました。

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今日。

2011.09.11 Sunday

あれから10年、あれから6ヶ月。
テレビではもっぱらその話題。
だから僕がここでいちいち言わなくても、色んな人が言っている。
でもなんか言わせてください。

今日という日は、今日以外の何ものでもない、今日という日。
10年前のあの日とは違う日だし、もちろん6ヶ月前のあの日とも違う。
でも、節目は大事だと思う。
大切なことを忘れないために、いいことも、わるいことも。

世界の情勢や経済のこと。
地震や津波のメカニズム。
原子力の仕組みや放射能のこと。
僕はどれの専門家でもないけれど、世界が平和になるための方法は知っています。
それはただ、人が人を思いやること。
それはただ、人が世界を思いやること。

伊吹拓さんのオープン・ワークス

2011.09.09 Friday

伊吹拓さんの制作現場にお邪魔してきました。
(伊吹拓 オープン・ワークス in 鹿背山の詳細 http://kizugawa-art.jugem.jp/?cid=15

いや〜、まず同じ制作者として、この空間がただただ羨ましい。広いし、天井も高い。
でもまあ、僕のようにどちらかというとチマチマ描く人間は持て余すかもしれませんね。
いや〜、でも羨ましい。とにかく羨ましい。
さてそれはともかくとして伊吹さんはというと、この空間をまったく持て余しておりません。所狭しと作品が並んで、油絵の具の匂いが充満しています。
なんだかんだお話もさせていただいて、2時間以上いた気がします。すいません、お邪魔しました。
「制作現場公開」ではなく「制作公開」なので、制作している場面も見させていただきました。
今まで色んな人の「ライブペインティング」っていうのを何度か見たことはありますが、たいていはあまりドキドキしたことがありません。

けれど、今日のは楽しかった!!ドキドキした!!
まるで格闘するかのように、けれど力ではねじ伏せない。
まるでダンスするかのように、けれど冷静に。
これだけ大きな画面に向かうと、腕のストロークなど、人間の身体のスケールと大きく関わってきます。
作者の呼吸と、キャンバスと絵具、とても緊張感があり、迫力もあります。
絵具が奥行きを持つ瞬間。絵具が光を放つ瞬間。
この「絵画が生れ出る瞬間」を見られるというのはかなり面白いです。

僕と作風は全然違いますが、めちゃくちゃ刺激になりました。

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快晴なので。

2011.09.08 Thursday

昨日に引き続き、本日も快晴。
そこで今日はアトリエで制作の予定を返上して、以前から少し気になっていた場所に取材に行くことにしました。
僕の作品は、プラスやマイナスの操作はありますが、基本的には現実にある風景がもとになっていることがほとんどです。

今日訪れたのは、家からさほど遠い場所ではなく、枚方市民なら誰もが知っている「山田池公園」です。
作品において、必ずしも「快晴」であることが条件というわけではないのですが、やはり天気は大事です。(雨は雨で大事ですし、晴れは晴れで大事です。)

今日の発見は、山田池公園から一本道を隔てた所に、新たに公園ができていたことでした。いつの間に...!!
ちなみに「公園」というのは、人間が作りだした、言わば「人工的な自然」ということで作品のテーマとして最近気になっております。

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ところで今日、ツイッターでつぶやきながら、少し気になったのが「風景」という言葉です。
何気なく使っていたんですが、自分の描いているもの、描きたいものは「風景」なのかもしれないと、あらためてと思いました。
以前から、よく「風景画」と言われることは多かったんですが、少しどこかに抵抗感があったりしました。
でも今日は妙に「風景」という言葉がスッと入ってきました。たとえ、人を描いても動物を描いても、あくまでも風景として描いている気がします。
「風景」は時間の堆積の表層だと思いました。とても表面的なんです。
ザクっと言うと、「色々あったから、こうなった」ということです。「こうなった」が風景で、「色々あった」は風景ではありません。
このことについては少し深く考える必要がありそうですので、今後の課題にいたします。